...about Elton John

管理人がエルトン・ジョンについて語るコーナーです



Mr.Yellowbrick / Elton John

↑のエルトンのイラストは、ミュージシャンであり、イラストレーターでもある
高尾レナード亮佑さんに描いて頂いたものです。世界に1枚の宝物です。


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エルトン・ジョンについて



【エルトン・ジョンとは?】

イギリスのロック界が生んだビッグ・スターであるエルトン・ジョン(Elton John)。これまでに40枚以上のアルバムを発表し、全世界で2億枚以上のレコード・CDを売り、 ヒット・チャート上でも数々の記録を残した。そして今なお現役で第一線で活躍を続けているシンガー・ソングライター。日本では「イエス・イッツ・ミー」の大ヒットで人気歌手となったが、ピークは70年代で、以降は次第に人気に陰りを見せ、近年では 忘れ去られた存在になっていた。しかし、楽曲を提供した映画「ライオン・キング」の大ヒットや、ダイアナ元皇太子妃への追悼曲「キャンドル・イン・ザ・ウィンド '97」の世界的大ヒットにより、 再び注目を集めるようになった(残念ながら欧米のエルトンの扱いと比べるとあまりにも寂しいが・・・)。 エルトンの輝かしい功績や記録などは Biography や Records などの別コーナーで詳しく紹介しているのをご覧になっていただくことにして、 ここでは管理人のエルトンへの"想い"を綴っていきたいと思う。


【エルトン・ジョンとの出会い】

母から中学の入学祝に買って貰ったトランジスタ・ラジオ・・・・すべてはここから始まった。 ラジオの深夜放送やヒット・チャート番組を通じて洋楽に夢中になっていた中学生の私は、1972年冬、当時ヒットしていた「クロコダイル・ロック」によってエルトン・ジョンの存在を初めて知った。 その頃の私は、親の勧めで続けていたクラシック・ピアノにすっかり興味を失っていて、ミッシェル・ポルナレフ、ギルバート・オサリヴァン、エルトンらのポップスやロック・スタイルのピアノに自然に惹かれていった。 そして、私がエルトンの魅力の虜になってしまった作品が'73年に発表された。名作アルバム「黄昏のレンガ路」と、タイトル曲「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」である。 彼の独特なハイトーン・ヴォイスと個性的なヴォーカル・スタイル、そしてなんといっても彼が作りだす質の高い美しい楽曲の数々が、私を完璧にノックアウトしてしまったのだ。


【エルトン・ジョンの創りだす音楽】

音楽(ピアノ)をやっていた私は、エルトンのコンポーザー、プレイヤーとしての魅力にも惹かれていった。 『実際に自分で演奏して歌って好きになる』という音楽の聴き方をしていた私は、エルトンを、ただ聴くだけではなく、彼のプレーを真似て演奏をすることでさらに好きになっていった。 新譜が出れば、曲を覚えるために擦り切れるほど聴いた。彼のサウンドの基調である「力強いピアノ」(ジャズコードを多用しないシンプルなサウンドと、ビートをピアノで叩くことにより感じ取れるリズムの安定)は私自身のプレイ・スタイルそのもので、明らかに エルトンの模写である。ピアノという存在が私とエルトンの繋がりをより深めてくれたのである。彼の作品の特徴のひとつに「予想を超えた展開」というのがある。名曲「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」のドラマチックなサビ転調部分などはその典型で、 これは聴く側に大きなインパクトと共に感動を与えるのだ。 この作風は特に'70年代の作品によく見られ、エルトンがその人気を確立した一つの要因と言ってもいいだろう。 エルトンが優れたコンポーザーといわれる所以である。


【エルトン・ジョンのパフォーマンス】

'70年代のエルトンは奇抜なファッションや派手なライブ・パフォーマンスで有名だった。実際、キンキラの衣装を着ていたことだけで、当時のマスコミは エルトンをグラム・ロック(デヴィッド・ボウイやマーク・ボランに代表される)扱いしたほどだった。 サービス精神旺盛で、ピアノの上で逆立ちしたり、飛んだり跳ねたり・・・・ライブの衣装も年々派手になっていった。 しかし残念なことに、その様はボウイやボランのような「格好良さ」とは程遠いものだった。彼はとことん格好悪かったのである。 後年、エルトンはインタビューで、これらの派手な行為を「自分のシャイな部分を覆い隠すため」旨の発言をしているが、単に隠すだけではなく、 時には滑稽とさえ思える服装や派手な振る舞いによって、自分の抱える容姿などの弱点をあからさまに観客に見せつけてしまう・・・・ 私にはエルトン独自のコンプレックスの解消法のようにも思えてならないのだ。 果たして、ドナルドダックの着ぐるみの中でエルトンは何を思っていたのか。 私はそんな「人間エルトン」にますます魅力を感じてしまうのである。


【生涯最良の日・・・エルトン・ジョン・コンサート】

30年近いファン歴の私だが、長い間、一つだけ心残りがあった。それはエルトンの生演奏〜つまりライヴを観る機会に恵まれなかったことだ。もう単独の日本公演はないのでは、と半ば諦めていた2001年11月、 エルトンの6年ぶり単独来日公演が実現した。この機会を逃しては一生後悔する!と思った私はチケットを購入、なんとか仕事の都合をつけ、念願のエルトンのライブに出かけたのだった。 忘れもしない2001年11月15日・・・・私は妻と日本武道館の会場にいた。 開演を待つ間、エルトンがもう直ぐ自分の目の前に現れると思うだけで緊張した。そして、オープニングの「葬送」で彼の弾くピアノの音を聴いた時・・・身体が震えるのを抑えることが出来なくなっていた。 「血まみれの恋はおしまい」でエルトンの生声をはじめて聴いた時・・・手拍子もできなかった。ただじっと彼の姿を食入るように見つめていた・・・・そして涙がこぼれてきた。  3時間近くにわたって28曲も演奏してくれたエルトンには、ただ感謝のひと言。エルトンのファンでいて本当に良かった、と心から思った1日だった。私はこの日を生涯忘れることはないだろう。


【・・・そして現在のエルトン・ジョン】

'76年の引退宣言とバーニー・トーピンとの決別、80年代初期の不遇の時代、90年代初頭の依存症の入院治療等いく度の危機を乗り越えて、エルトン・ジョンは現在も活躍中である。2006年9月には44枚目のオリジナル・アルバム「The Captain And The Kid」を発表。 還暦を迎えた2007年3月以降もコンサート活動を精力的に行っていて、とても還暦とは思えないほどのバイタリティを感じる。そして、2007年11月には6年ぶり7度目の来日を果たしてくれた。日本ではエルトンは未だに「ユア・ソング」であり、話題になるのは音楽以外のことばかり。 彼が音楽家としてどれほど素晴らしく偉大であるか、日本の音楽ファン、特に若い人たちに是非知って欲しい。このサイトが、少しでもその手助けになるのであれば、それは私にとってたいへん幸せな事である。 「黄昏のレンガ路」でファンになって以来30数年、リアル・タイムで彼の音楽と触れ合うことができたこと・・・・これは私にとってかけがえのない大切なことだった。 エルトンがいつまで現役を続けてくれるのか分からないけれど、彼が歌い続けてくれる限り、これからも、私はそれを喜びとして生きていくことだろう。 心から愛している。  管理人まちゃ



  

左から、年期の入った管理人所有の楽譜集と全111曲のピアノ楽譜集「The Ultimate Elton John Collection」(洋書)。



  

バーニー・トーピン Bernie Taupin



【運命のパートナー、バーニー・トーピン】

エルトン・ジョンを語るとき作詞家バーニー・トーピンの存在を切り離すことはできない。1950年5月22日、英国リンカーンシャーのスリーフォードという町で生まれたバーニーは '67年のあるオーデションでエルトンと出会い、エルトンが Reginald Dwight から Elton John と名を変えて以降の幾多ある名曲のほとんどを作詞している。 彼らの作品は先にバーニーの詩があり、エルトンが後から曲をつけるというパターンで制作される。バーニーの詩に命を吹き込むのがエルトンならば、エルトンの楽曲に輝きを放たせるのは バーニーの詩である。'76年にバーニーとのコンビを一時期解消して他のパートナーとコンビを組んだエルトンだったが、今ひとつパッとせず、'83年にバーニーとのコンビを完全復活させている。試行錯誤の末 エルトン自身、バーニーが不可欠な存在であることを確信したのだろう、コンビ復活後、サントラ盤や企画物を除いたすべての主要アルバムでバーニーは作詞を担当している。 今後も二人は素晴らしい作品を世に送り出してくれることだろう。エルトンとバーニーのコンビは間違いなくポピュラー音楽史上に名をとどめる存在なのだ。





エルトンの仲間達 Elton's Good Friends


エルトン・ジョンをサポートするプロデューサーやバンド・メンバー達。その中でもエルトンにとって重要な何人かを紹介する。バーニーと共に彼らもまたエルトンを語る上で切り離すことはできない。


【ガス・ダッジョン Gus Dudgeon】

1942年9月30日イギリス、サリー州生まれ。'60年代から音楽の仕事を始め、その後デビッド・ボウイなどのプロデュースを手がけ注目される。 '69年にエルトンと出会い、アルバム「Elton John」からエルトンの'70年代の作品の殆どをプロデュース。そのアルバム数は全作品中18枚に及ぶ。 エルトンの大成功を演出した最大の功労者と言えるだろう。残念なことに2002年7月21日、ガスは交通事故によって愛妻Sheilaと共にこの世を去った。エルトンは彼の葬儀で「同じ時代を生きた最も偉大なプロデューサー」と呼んで哀悼の意を表した。


【クリス・トーマス Chris Thomas】

1947年1月13日イギリス生まれ。'80年代から'90年代にかけて、最も多くのエルトン作品を手がけたプロデューサー。'70年代からUKシーンを中心に活躍をはじめ、ロキシー・ミュージック、バッド・フィンガー、プロコル・ハルムなどを手がけ、名プロデューサーと呼ばれる。 エルトンとは'81年のアルバム「Fox」からプロデュースを担当。第2期黄金時代を大きく支えた功労者である。エルトンと同じロイヤル・アカデミー出身で旧友でもある。日本の「サディスティック・ミカ・バンド」をプロデュースしたことでも有名。


【デイヴィー・ジョンストン Davey Johnstone】

1951年5月6日イギリス、エジンバラ生まれ。アルバム「Honky Chateau」からエルトンのバックバンドにギタリストとして参加して以来、現在まで長きに渡ってエルトンを支え続けている。今やエルトン・サウンドには欠かせない人物。現在ではツアーの音楽ディレクターも 勤め、エルトンからの信頼も厚い。ソロでアルバムも発表している。


【ナイジェル・オルスン Nigel Olsson】

1949年2月10日イギリス、チェシャ州生まれ。'70年代のエルトン・サウンドを支えた名ドラマー。ユーライヤ・ヒープなどを経て'70年からエルトンのバンドに参加。 その後金銭トラブルなどで何度か脱退と復帰を繰り返し、2000年から再びエルトンと活動を共にしている。個人的な人気も高く、'79年にはUSで2曲のトップ40ヒットを出している。


【ディー・マレー Dee Murray】

1946年4月3日イギリス、ケント州生まれ。スペンサー・デイヴィス・グループを経て'70年にエルトンのバンドにベーシストとして参加。 DVD「Goodbye Yellow Brick Road」で解説するガスが絶賛するように、ベーシストとしての技量は一級品と言われた。'75年にナイジェルと共に バンドを脱退したが'80年代に復活。1992年1月15日、癌のため45歳の若さで死去。最期のアルバムは「Reg Strikes Back」だった。


【レイ・クーパー Ray Cooper】

1942年8月19日イギリス、ワトフォード生まれ。世界的に有名なパーカッショニスト。セッション・ミュージシャンとして数多くの作品に参加している。 エルトンとはアルバム「Madman Across The Water」から。以後エルトンのバンドに参加をする。'79年のソ連公演や'95年の来日公演ではエルトンと2人だけのツアーを 行った。


【ポール・バックマスター Paul Buckmaster】

1946年イギリス、ロンドン生まれ。エルトンの初期のアルバム「elton john」から「Madman Across The Water」のストリングスを担当。独特のエルトンの世界を作り出したアレンジャー兼チェロ奏者。 エルトン自らがStrings Periodと名づけるこの頃の作品はポールの存在なしでは生まれ出なかったと言っても過言ではない。近年も再びエルトン作品に名前が登場している。





【現在のバンド・メンバー Elton John Band】

エルトン・ジョン      Elton John : piano & vocals
デイヴィー・ジョンストン  Davy Johnstone : Musicial Director, guitars, & vocals
ガイ・バビロン       Guy Babylon : keyboards
ボブ・バーチ        Bob Birch : bass guitar & vocals
ジョン・メイホン      John Mahon : percussion & vocals
ナイジェル・オルスン   Nigel Olsson : drums & vocals




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